昭和47年11月03日 朝の御理解



 御理解 第41節
 『信心は話しを聞くだけが能ではない、我が心からも練り出すがよい。』

 一生懸命思いに思い、練りに練って、我が心からも練り出すがよい。どう言う風に練り出すかと言うと、勿論自分の信心の心が豊かに成って行くと言う様な練り出し方、おかげが愈々受けられる様な心の使い方、そう言う練り出し方が大事なんですよ。一生懸命思いに思い、練りに練って、心が反対に小さく成って行ったり、又はおかげの受けられない方に、練り出されて行ったんではつまりませんからね。
 昨日此処の御信者である幹部の方が、今頃ちょっと自分ではそう思っていなかったけれども、失敗をされたある事で、それで言われるのに、私は此の様な失敗ばかりをしておりますから、此処での幹部の御用をやめさせて頂きますとこう言う。それも考えに考えた末だとこう言う、私は他に色々の仕事をさせて頂いておる勿論、世間話的なお話しをしておる時に、ひよっこりそう言われるから勿論本気ではないと思うたけれど、その事に対して返事もしませんでしたし、冗談でも心が暗くなった、それを聞いて。
 本当に私は何時も不調法ばかりしまして、失敗ばかりしまして本当に今度はもういっちょう失敗せんごと頑張らせて頂こうと、思いよりますがと、それでいいのじゃないかと思う。そして今までの例えば出来なかった御用でも、させて頂くと言うのなら、是はおかげを頂く方の心に練り出した訳ですね、改まる方に心を練り出した訳です、言うなら日頃頂いておる信心の御教えと言うものを、その様な風に練り出して行く訳なんですけれども、止めさせて頂こうとこう言う。
 大事なこう言う御用は私じゃ務まらん、何時も失敗ばつかりしとるからね。例えばそれはもうあなたは止めなさいと言われりゃ別である。まあその事責任を感じて、進退伺いを出すとまあ申しますね、と言う事は場合によってはいいかも知れませんけれども、例え其処で例え止めたが良かろうと言われても、此処はもう一遍改まらせて頂いて、その事に当たらせて貰いますからと言う様な行き方、そう言う前に進んで行くと言う行き方、そう言う風に私は練り出されて来なかったら、練り出すと言う事にならないと思う。
 愈々考えに考えた末、私はその幹部の御用を控えさせてもらう、失敗ばかりしておるからとこう言うのである。是では練り出した事に言わばならんでしょうねえ、信心で言う練り出すと言うのは、信心の心が愈々豊になり、おかげが頂けれる様な練り出し方、おかげを頂く様な行き方こそが、我が心からも練り出すのが良いのであり、日頃頂いておる御教を元にして練り出す、そう言う事になるですね。昨日又こんなお取り次ぎをさせて頂いた、もう大変ななんぎに直面しておる、その方が言われるんです。
 胃が悪くなると言う事、胃が悪くなると云う事は、あのテレビで森繁久弥がなんか言う、胃の薬の宣伝をしておりますよね、それには先ずなんと言うても、イライラすると言う事が、一番胃にいけないと言う事、その事を言われるんです。私はなる程、胃に障ると言う事、胃が悪くなると言う事は、今の私の様な状態だったら、胃が悪うなるだろうと思うと、御飯がさばけん胸につかえとるもんですから。
 何かが何時も心配になる苦しみよる。成程是なら胃が悪なるだろうと。私はそれを聞かせて頂いて成程信心して、生きたくば信心して長生きをせよと仰るが、信心する事によって心がいつも安らいでおる、信心の心が何時も和賀心を目差しておる、喜びが一杯である、成程是なら胃腸が健全になって来る、非死がいかないもう万病の言うなら、中心と言れるのが胃腸と言れる位だから胃腸のさばくが良くなるから、成程信心して有難い有難いの稽古をするなら、長生きのおかげ頂くはずだと私は思わせて頂きね。
 昨日はあの渕上先生ところのお母さんが満百五歳と十二日、長生きのおかげ頂かれて一昨日亡くなられて昨日は告別式であった、渕上先生が最後に皆さんに挨拶しておられる挨拶の言葉の中に、私の母は別に信心があると言う訳ではない、ね。けれども本当に信心を頂いて居る者の生き方、言うなら本当の人間の生き方、もじ通り文字一字読めも書けもしない、無学の盲の母でも御座いましたけれども、人間の本当の生き方をしめしてくれた様に思いますと、言う事を話しとりました。
 兎に角ね、母のね不平不足と言うものを聞いた事がない、前の奥さん今度の奥さん、嫁さん達、中々気の利いた嫁さん、何時もこの前の時奥さん、又聞いておられました、しゃんしゃんしておられました、ほんの奥さんしゃんしゃんしておられました、けれども自分の事だけまあだは自分でする、これは近見市長が弔辞を読んでおられるなかに、今頃から敬老の日に市長さんがあそこに挨拶においでられた、そん時に所謂この渕上のおばあちゃんに色々と話しを聞いたが、そん時にまあだ私の事は私でします。
 言う自分でする嫁ご達には頼らんと。そしてどう言う中にあっても不平不足を言わないと言う、その母の生き方と言うものがです、人間の本当の生き方を示してくれた様に思う、と言う事を言っておられる。なる程私も良く知っておりますけれど、もう本当になる程不平不足を言うお婆ちゃんじゃありませんでしたですねえ。もう二十何年前になりますかな、私が引き上げて帰った間もなくの頃、草野からバスに乗って、前の奥さんは久留米から見えとりましたもん。
 ですからあのう椛目迄送って見えるのです、それで丁度今頃だったと思うのです、後ろ前、柿とみかんとこう、かろうちから、奥さんなハンドバックでんも持ってさっさと前さん行きなさったけど、ばば様が、後ろ前、かろうちから樺目まで送って来ちゃる、バスの停留所まで、もうそりがもうそのうひとっつも、奥さんに障らんだけでなくて尻から見てもそう障らない様な生き方です。
 まあ本当に感心なお婆ちゃんでしたがです、程長生きされる元がそう言う不平不足を言わず、自分の事は自分ですると言う様なです、今度でもあのー何か、何か喉にささったんですね何か魚の骨か何か、それでもう奥さんが洗面器か何か持って来て、此処で指突っ込んで吐きなさいち、言われたそうですけれども、いやこげんとこじゃいかんけんと言うて、わざわざ便所迄自分で行かれたそうです、そしてそのうとうとう息が詰まって亡くなられたらしいんですけれどもね。
 そう言うその方だったんです。とても信心の教えを行じ守っておる者、信心頂いて居る者でも是だけの行の上に表せれる人はいない、嫁ごが気が付かんとか、世話をしてくれんとかね、そう言う不平不足が一杯でありましょうけれども、百五歳にもなって自分の事はまあだ自分ですると言う、不平も不足も何もない本当にそんな方でした。成程長生きの元がそこにあったと感じます。様にね、昨日私がちよっと話しが横道に入りましたけれども、昨日お取り次ぎさせて頂いたのもです。
 成程最近は心配が胸にしこってしまってです、御飯の時間になっても御飯がいけん、何か胸につかえた様にあって心が暗くなる。もう先生今頃もう死んだごたる気持ちでまあ勤めさせてもらいよると、こう、そう言うお取り次ぎさせてもらいよったら、あの幽霊の格好をして姿を見せて下さる。手を前にこうして「迷うたあ」と言う姿なんです。大体言うたらね、もう死んだ気持ちで例えばおったら不平も不足もないはずです。
 実を言うたら、けれども死んだ気持ちじゃなしに、死んだごたる気持ち、心が死んでしまっておる、そして心がくよくよしておる。死んだ気でと言う事はですね一生懸命と言う事でしょうけれども、死んだ気で励めと言う事なんです。もう自分は心が暗くなって何する気もなか、もうそれこそ生けれる屍のごたる。それが死んだ心持ちではなくて、死んだ心で励むと言う事です。
 私の一番の修行中の時分に頂いておる御教えの中にもそれがある。「死んだ気で励め勤めよ徳も付く、道も開ける人も助かる」と言うお詩を頂いた。死んだ気でと言うのはもう無気力の様な、そう言うもう生きておる屍の様な状態であると言う事ではなくて、死んだ気ではずむと言う事です、だから一生懸命と言う事なんです。と言うてその方に申しましたら、はぁほんなこて先生死んだ気で弾まにゃやっぱいかんとですな、と言うて帰られました。成程私が今そう言う、死んだ気のごたる気でおるけれども。
 心は言うなら迷うたあの様な状態になっておるのだ、是ではおかげは頂けないはずだと言う事を、自分でも気付かれた様です。 兎に角練り出すと言う事はです、只腕こまねいて練り出す、只考え出すと言う事ではなくて、本気で教えを行じながらの練り出しでなからにゃいけん、そこからは必ず、いわゆるおかげの頂けれる道が練り出されて来る。一段と信心が向上する。
 一段と信心が心が豊かに大きゅう成る様な練り出し方でなからにゃいけん。もう考えれば考える程暗くなる、考えれば考える程、もう自分はつまらんと思う、そして大事な御用も御無礼させてもらおうかと言う様な事になって来る。是じゃ考えて考えて考えた末に、愈々おかげの受けられない方に、心を持って行っておるのですから、そう言う練り出し方ではいけない、此処て練り出すが良いと仰るのは、おかげの頂けれる方に練りださなければいけないと言う事です。
 信心は話しを聞くだけが能ではない、その話しを本気で行ずると言う事、また自分の心からも、あれでもなかろうかこうでもなかろうかと練る事、けれども出て来る答えはおかげを頂かしてもらえれる、生き方が練り出されて来なければならない、暗い心が明るうなる様な、練り出し方でなければ駄目なんです。愈々考えても考えても分からない、そう言う難儀を心に感ずる時、そう言う時には「只今戦時中」と言う様な。
 例えば軍服を着て背嚢かろうて、鉄かぶとをかぶって、さあ寝るからと言うて背嚢おろしたり、軍服を脱いだりして寝る様な事は致しませんでしょう、もうそれこそ背嚢かろうたままちょいと横になって、もう鉄兜も被ったままちょいとまあふらっとすると言うくらいな、そう言う私はものが大事だとこう思う。とてもよい事がです、有難い事がです寝ながらども練り出されるはらは絶対にないと言う事です。
 皆さんが例えば、寝ながら物を色々考える時に、えらいよい考えが浮かんで来る様な事があるでしょう、けれども起きて見てから考えて見なさい、寝てから考えつ付たと言う事は決してよか事じゃないです。寝ながらあげな良かこつもあると色々考える事もある眠らんままに色々と考える事があるでしょう、そして良か事を思い付いてハッと思う、枕元に何かメモして置く様なものでも置いといて、それを書いておってからあくる日見てごらんなさい、起きてから大した事ないです。
 我が心からも練り出せと言う事は、もう練り出さなければおられない様な時なんです、自分の言うならもう生き方が分からなくなった、心が暗い心が重い、楽にその事どん考えておる様な事で、良い答えが良い練り出しが出来るはずがありません。だからそう言う時にです、本気で修行させて頂こうと言う気にならにゃいけません、しかもです、言うならば戦争中にちょっと眠ると言うても、背嚢かろうたまま鉄兜を被ったまま、ちょっと寝ると言うなのが私は戦いの最中に例えば眠るなら寝るとか。
 一服するなら一服するのであって、そう言う心掛けが大事です、よい有難い事が練り出される事の為には。楽をしながら練り出されると言う事は良いおかげの頂けれる道が、練り出されると言う事は決してありません、心が楽になる、心が豊になる、心がスキッとすると言った様な私は練り出しは、楽しながらども考えて練られるはずは絶対にありません。だからそう言う苦しい時ですから。今戦争中今戦いよる時、自分の心と戦いよる時と言う気持ちであったらです。
 帯とく紐解く暇のない様な心の状態で、神様へ一段と一心に向こうて行くと言う行き方から、其処から翻然とした練り出しが出来るのです。そして心の中に一生懸命苦しむ、苦しいからもう死んだごたる気色と云うけれど、それはなる程心が死んでしまっておる、そう言う心で練り出しが出来るはずがない、所謂おかげの頂けない様な心が出て来る。おかげの言うならば心が小さくなる、こもうなる返って暗うなる様な事が、次ぎから次ぎと心の中に練り出されて来る。
 だからそう言う例えば我が心からも練り出せと仰る。只寝なが練ったり只腕こまねいて考え込んだりと言う様な中からは、良い思索は生まれて来ないと言う事。それはんなら寝ながらあれこれ色々と、良い考えが浮かんだ様であるけれども、実際明くる日に愈々活動の状態の時に持ち出して見ると、大した良い名案と思うておった事は、名案ではなくて良い考えと思うておった事は、良い考えではない事実を皆さんが体験する事があるでしょう、様にです、つまらん考えしか起こっちゃ来んです。
 練り出すと言うのは所謂る自分の心の中に、一つの戦いをしておる時、ですから例えばね、それこそ帯ひもを解かんで修行をする。教祖の神様はもうお亡くなりになるちょっと前迄、帯ひもを解かずに寝まれたと言うておられるが、いかに隙のない日々でおありになったかと言う事が分かりますですね。だから私共はそう出来ませんけれどもです、だから何時もとは出来ませんけれども、いわば自分の心に練り出さなければ。
 日頃の信心を元にして練り出す、そう言う例えば苦しい事に直面した時です、本気で帯紐とかんで寝る位な心もち。戦争中に言うなら鉄兜被ぶったまま、背嚢かろうたまま横にごろっとなって眠る位な、そう言う気持ちがです、今自分の心の中にそう言う戦い、そう言う戦時中だと思うてです、心を神様に向けて参りますと、そこからもう愈々今迄気が付かなかった事、今迄分からなかった事が翻然として分かって来る。
 皆さんは合楽の例えば信心と言うか、皆さんがおかげを受けられて私がおかげを受けておると言う事は、自然の中に融け込んで行くと言う事、自然の働きをそれと一体になると言う事、其処ん所を、成り行きを大事にすると言う事は、そうです、自然のそこに起きておる働きの中に、こちらが融け込んで行く言うならば自然、いわゆる天地の親神様のお心の中にこちらが合流してゆく。
 様々な例えば問題が起きて来る、その問題の中に問題をその困った問題なら困った問題を避けようとするのではなく、その問題の中に融け込んで行く、そしてその問題を生かして行くいわゆる自然のなかに融け込んで、その自然を生かして行くと言う生き方、そう言う生き方から私はおかげを受けておるし、信心をその都度都度に一段と高め進めさせて頂いておる。只自然を生かすと言うだけでなくて、自然の中に入り込まなければその自然を生かす事は出来ません。
 苦しいからと言うて其処から逃れる所から、其処から自然を生かす事は出来ません。其処から間違いのない神様の働きを受けてです。成程自然の中には、いわゆるそう言う自然の働きの中には、いわゆる神様の働きの中にはもう一分一里も間違いなく、氏子の幸せを願うお心だけしかないと言う事が体験される。無駄が無いそれはどう言う難儀な心が塞がる様な難儀な問題であってもです、その問題の中にこちらが溶け込んでゆく、言うならばその成り行きを大事に大事に合掌して受けてゆく。
 其処から成り行きを必ず生かす働き、自然を生かす働きが生まれて来る。そしてそれは難儀じゃなかった、こう言う素晴らしい事を生かし産みなす為の、神様の働きであったと言う事が分かる。自然の中に溶け込んでその自然を生かして行くと言うのが私の信心なんです。だから そう言う合楽の根本的な信心の進め方と言うものを、本気で身に付けておきますと練り出すと言う事はもうおのずと練り出されて来ると言う事です。
 けれどもそれが起きて来るその成り行きその問題がです、本当に目が塞がる様な問題である事が、その問題から逃れよう逃れようとして、よい考えが練り出されるはずはないと、言う事を今日は申しましたですね。その中に溶け込んでいくと言う事、その為には、例えば簡単な様ですね自然の働きの中に溶け込んでいくと言う事は簡単な様ですけども、それは簡単に入ってゆけれる事もありますけれどもです。
 難しい事、言うならそれから逃れたい様な心の状態の時にです、今こそ戦時中だと言う様な心もちです、それに取り組ましてもらう、その中に溶け込んで行くところからです。其処から生かされて来る、其処から生かされて来るおかげを自然を生かすと言う事になる。天地の親神様のおかげをやりたい渡したいと言う心を頂くと言う事である、そして一切の中にです、神様の働きの中には無駄が無いと言う事が分かる。
 と言う様ないわば合楽の信心の進め方が翻然として参ります、成り行きを大事にすると、それは自然の中に、自然の働きの中に溶け込んで行くと言う事なんです、其処から一分一里間違いのない神様の働きをです表す事が出来る、言うなら自然の中に溶け込んで自然を生かして行くと言う、そう言う生き方をです合楽では一生懸命勉強しておる訳です、お互い。其処から言うなら自然の働きと共に。
 練り出されて来るのがおかげなんであります。話を聞くだけが能ではない事が解ります。成程和賀心からも練り出せと教えられるのは、今日私が申しました様な、意味合いに於いて練り出して行なければいけない。それをいわば兎に角楽になりたいばっかり、早く楽になりたいばっかり、まあこんな面倒くさい事はもう早く止めたいばっかり。もう私は失敗ばっかりしとりますから。
 この御用はひとつ辞退する、私はもう此処の幹部の御用なん勤まらん、と言う様な事を考えに考えた末に、そう言う事が練り出されたとするならばです、それは言うなら愈々信心が小さくなり、愈々おかげの受けられない事が練り出された事でしょう。だから練り出すと言う事はおかげを受けられる練り出し方心が愈々今までも広う大きゅうなる様な練りだし方でなければならない。
 只練り出すと言う事はおかげの受けられる生き方に、そう言うおかげが頂かれると言う答えが出て来る様な、練り出し方じゃいけないと言う事です。考えに考えた末におかげの受けられない様な練り出し方、それは楽をしながら寝ながらどんあれこれ考えたり、只腕こまねいて、只一生懸命考えた所から生まれて来る様な、練り出した物はですおかげの反対に小さくなったり、おかげの受けられない様な事しか、練り出されないと言う事を今日は聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。